18.11.18外科系連合会講演
いま医師は、どのような問題を抱えているか
生物の振る舞いは非線形かつ不確定である、といわれる。
線形システム(Linear System)において解というものは初期値を与えれば一意に定まるものであり、すなわちそれは予測の成立しやすい系である。一方、非線形複雑システム(Non‐linear Complex System)には時間経過とともに急速に誤差が拡大するという性質があり、そこでの予測は時間毎に線形近似(Linear Approximation)によってかろうじてなされる。時間という属性を見誤ったとき予測外の事象が必ず生じるといっても過言ではない。
また、われわれ人間は、非線形に振る舞う生物であることに加えて個性という属性があり、ひとりとして同じ者はいない。エビデンスと呼ばれるデータは所詮ばらつきを排除した代表値で近似的に表現した結果であり、特定の個人の属性を正確に表現したものではない。多様性のある人間という生物を対象とする臨床医学の場では、非線形と個性という不確定な要素が存在するのが常である。そこでは日々「不確定下における決断(Decision Making under Uncertainty)」がなされることになり、「医師の裁量権」というものもこのような決断の延長線上にあると考えられる。
今日まで、主として医療行為の専門性を基軸に「医師の裁量権」なる概念が形成されてきた。それがときに医療の密室性や閉鎖性に繋がり、悪しき結果に対する責任逃れや代弁行為に用いられた一面があったということは否定しがたい。医学には(法学もそうであるが)ある種の特権めいたものが付き纏うために、原点を忘れて暴走ないし独走することがあると言われる。医療事故が社会問題化するようになった背景のひとつに、「医師の裁量権」を隠れ蓑として機能させる医学界の隠蔽体質と、自浄作用欠如あるいは自己検証システム欠如があったとも指摘されている。もしそうであるとすれば、この「医師の裁量権」なるものについてより普遍性の高い定義づけをする努力をし、医療行為の透明化を図り、市民からの信頼回復を目指すことが、現代医療の抱える問題への解決の一方策となるであろう。
しかし実際には、インフォームドコンセントを例に一考してみても、医療行為の結果についての予測を含めた説明がなされながら実際にはその予測をさらに外れた結果が生じる可能性が常在しているものである。そのような状況で、「医師の裁量権」はいかなる範囲いかなる程度まで許容されるのか。実質的に有意味であるのか。患者の承諾が得られていないような結果が生じた例においてはそれが市民一般にとって納得できる内容であれば、いわゆる推定的同意がなされたものとすることができるのか。果ては、医療行為の目的が正当で手段が妥当でさらにその医療行為の必要性・緊急性が認められれば全行為にわたって許容されるのか。解決すべき課題は山積みされている。
これから医師は、何をするべきなのか
価値の多様性化の進む現代社会において、そのかかえる問題状況を具体的に踏まえ、個人個人のかかえる価値判断をフィードバックさせつつ、非線形性と不確定性という臨床医学に現存する課題についての認識を市民と共有することが、医療技術を提供することと同様に、われわれ医療人とって大切であると考える。それにあたって、法曹界との見識の連携と交換がなにより重要となるであろう。
近年、医事裁判は急増しており、裁判所は医事裁判の運営に関し種々の改革を行っている。そのひとつが、私も関与している鑑定制度改革の試みである。千葉地方裁判所、東京地方裁判所のそれぞれの試みは次のとおりである。
千葉地方裁判所での試み
千葉地方裁判所では全国に先駆けて、既存の鑑定制度の問題点等を改善するため、平成13年に、医療機関(県内六大学病院)、弁護士会、裁判所で構成する「医事関係裁判運営改善協議会」を開催し、民事第2部を医療裁判集中部として発足させた。平成14年には前記協議会を発展的に解消し、新たに「千葉県医事関係裁判運営委員会」を発足させた。
県内六大学病院の病院長及び副院長が、鑑定人候補者推薦の窓口となるシステムが構築されるとともに、複数鑑定(同一鑑定事項について、同一時期に専門領域を同じくする複数の鑑定人を指定して鑑定を行うもの)を実施することとなった。その結果、医事関係裁判が適正・迅速に解決される傾向にある。
東京地方裁判所での試み
東京地方裁判所においては、新しい鑑定方式として平成14年からカンファレンス方式の鑑定が実施されている。カンファレンス方式の鑑定とは、裁判所のラウンド法廷等に裁判所、当事者、鑑定人が集まり、裁判所の訴訟指揮のもとに鑑定人に順次口頭で鑑定事項についての意見を述べてもらい、裁判所や当事者からの各鑑定人に対する質問についてもその場で行えるものである。一回の鑑定実施につき約3名の鑑定人を要するため、平成15年からは東京都内の全13医科大学の協力を得て「医療機関、弁護士会、裁判所との協議会」を設置し、鑑定人推薦等がなされている。
カンファレンス方式の鑑定の利点としては、(1)鑑定意見の趣旨や疑問点を直接鑑定人に尋ねて、口頭での説明を受けられるので理解が得られやすい (2)複数の鑑定人が意見を述べることで、より公正な鑑定が得られる (3)鑑定人側としても鑑定に要する時間と労力が軽減され、また自己のみの意見で裁判の結果を左右してしまうという心理的負担から開放され、より鑑定に関与しやすくなるなどが挙げられる。
ここで特記したいことは、法曹界と医療界との直接的な意見交換の場が実現しているということである。法曹界が医療界にその協力を求めている作業であると同時に、医療界の現役の医師が現状に即した意見を述べる機会でもある。ひとつの判例の重みがひとつの学会提唱より何倍もインパクトがあることは自明である。このような鑑定システムについて、単に医師が意見を述べる機会が増えたと喜ぶだけでなく、その社会的意義に大いに注目すべきであろう。
判例とは、歴史や社会システムを反映し、反映し返すものである。その時々の政策原理に影響を受けると同時に、次世代の政策を方向づける一要因となりうる。現世代の医師であるわれわれが次世代の医療に何を伝えていくことができるかを考えたときに、裁判を単なる論争の場ととらえずに、よりよい医療を模索する場のひとつとしてより積極的にかかわっていくことができるのではないか。
裁判というものも、医療と同じく人間の社会的営みのひとつである。それを有効利用するか否かは個々の医師の考え方次第であるが、その価値についてはすべての医師が十分認識すべきであろう。
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